町野主水という男


ミウラの独り言〜


私、町野主水(まちの もんど)が大好きです。
本当に素晴らしい男です。
本当に立派な男です。


町野主水とは、どういう男かと言いますと・・・


戊辰戦争のために、会津若松では、多くの者が自刃し、また、殺されました。
主水は、戊辰戦争の後、その死体処理に従事していた会津藩士です。


そのときの主水の気持ちを思うと、辛かった、という言葉だけでは表わすことができません。


俺たちが何をしたっていうのだ。
会津のどこが賊徒なのだ。
なぜ多くの婦女子が自刃し、多くの人間が殺されねばならぬのだ。
そして、
自分はなぜ、生き残ってしまったのだ、と。


私が、自分の友人や知り合いに、「私は幕末史が好きで、なかでも会津が特に好きだ。」
という話をすると、みんな決まって、「あぁ、白虎隊?」と聞く。


もちろん、白虎隊をきっかけにして、会津のことを知ってもらえるのなら、
それはそれで良いとは思う。
だが、本当の悲劇は、白虎隊ではない。

本当の悲劇は、多くの婦女子が、「薩長の賊に辱められるくらいなら。」と、
自分の幼い我が子を殺し、自らも死んでいったことである。
幼い子供・・・
2歳、3歳といった本当に可愛い盛りの子供を、自分の手で殺し、自分も命を絶つ。
恐がる子供を、「あなたも武士の子でしょう。」と母が言い聞かせて、殺す・・・


これほどの悲劇があるだろうか。


自分の妻、子供達が、そのようにして死んでいった。
だから、会津の男たちの戦いぶりは凄まじかったのだ。


このように無念の死を遂げた人間達を、西軍側は、「賊徒の死体など収容する必要はない」
という無慈悲な態度を貫いていた。


主水は何度も何度も足を運んだ末、ようやく死者たちの埋葬を認めてもらえたのであるが・・・


死者たちの埋葬を認めてもらえたからと言っても、それは、ひどいものであった。
穴の底一面に筵を敷き、その上へ遺体を一つずつ並べていく。それが面積一杯になると、
その上にまた筵を延べて土をふりかけ、二段目、三段目と死体を積んでいく・・・



主水は、大正12年6月9日に死にました。
そのときのお葬式は、たいそう奇妙なものであったそうです。
それは、棺を荒筵でつつみ、荒縄で縛り、縄尻を裸馬に曳きずらせたのです。


主水は、自分だけ立派な葬儀にするわけにはゆかぬ、あの戦いに死んだ家族や
友人たち同様に、自分も荒筵にくるまれ縄で引きずられて墓所へ運ばれるべきなのだ、
と思っていたのだと思う。


主水は、本当に立派な男だと思う。



会津・町野家のお墓です。




 ※ 中村彰彦さん著「その名は町野主水」を参考にしています。